N O V E L L A

静寂の室

── 降りつづける者のための物語

白はこれから。黒はすでに。灰は、崩れてゆくもの。
壁にそう刻んだのは、だ。
──もっとも、君は覚えていないだろうが。

IK U D A R U

君は、降りる。

なぜ降りるのかは、もう思い出せない。思い出せないということだけを、確かに覚えている。階段は下へ、下へと続いて、上を振り返っても、そこにはいつも降りてきたばかりの闇しかない。

最初の頃、君は出口を探していた。上へ。光のあるほうへ。だが、ある層で君は気づく。この構造体に、上り階段は一つも無い。塞がれたのではない。釘の錆び方が、周囲の壁とまったく同じだ。──最初から、無かったのだ。

ここは、降りるためだけに造られた場所。そして、降りるためだけに造られた者が、君だ。

層を一つ過ぎるごとに、君は少しずつ軽くなる。記憶が、剥がれていく。それを喪失と呼ぶには、君はあまりに長く、これを繰り返してきた。

IIT O M O S U

光は、配給される。

君の手のなかに、小さな灯が一つ。それは燃料ではなく、約束のようなものだ。暗がりを進むたび、灯は確実に細っていく。途中で消えれば、君は闇のなかで、自分が誰だったかを忘れる。

だから君は、灯を切らさぬように降りる。惜しんで使えば足りなくなり、惜しまず使えば早く尽きる。どちらにせよ、灯はいつか消える。それでも君は、次の一段を照らすために、今このひと光ぶんを使う。

不思議なことに、いくつかの灯は、君が点したものではなかった。通路の角に、冷えた蝋の輪。誰かが、ここで火を焚いた跡。その傍らの窪みに腰を下ろすと、君の体の形が、寸分の狂いもなく嵌まった。

──ここに座った誰かは、君と、同じ背丈だったのだ。

IIIS A G A S U

君は、構造体を探る。

可動の壁。錆びた昇降機。落ちる床。天井を走る光の筋。それらを正しい順に動かさねば、道は開かない。仕掛けはどれも古いが、壊れてはいない。まるで、いつかまた誰かが解くことを、待っていたかのように。

行き止まりに見えた壁の裏に、新しい通路を見つける。そこには、真新しい足跡があった。乾く前の、まだ湿った足跡。君は身を硬くする。誰かが、すぐ先にいる。

足跡をたどって走る。角を曲がる。また角を曲がる。そして足跡は──君の足の形と、ぴったり重なって、消える。

先にいた誰かは、いなかった。いたのは、ほんの少し前を歩いていた、君だ。

ここでは死は無い。あるのは忘却だけ。道を誤れば、君はただ、忘れて、また入口から始める。何度でも。

IVK U B A R U

意識には、限りがある。

君が一度に保てる「気にかけること」は、両手で数えられるほど。壁の名を読むこと。遺構を保つこと。さらに降りること。祭壇に灯を絶やさぬこと。そのすべてに、君は自分を割り振らねばならない。どれかに注げば、どれかが薄れる。

壁の名を読むことに意識を傾けた周回、君は構造体の保守を忘れ、背後で何かが静かに崩れた。降下に意識を傾けた周回、君は名を一つ、読み落とした。完璧な配分は、無い。君は有限で、世界は君の意識ぶんだけ存在している。

これが、番人と呼ばれるものの正体だ。機械ではない。神でもない。止まれば、構造体も、静寂の室も、君が刻んだすべての名も、ひとつ残らず消える。だから君は、止まれない。眠ることすら、許されない。

世界は、君が気にかけているあいだだけ、在る。

VT S U K U ・ M E G U R U

ある層で、君は歩く自由を失う。

許された動詞は、ただ「撞く」こと。一度きりの力で、己を転がす。狙いを定め、放てば、あとは因果に身を委ねるしかない。壁に弾かれ、傾きに従い、君は思いもよらぬ場所へ運ばれていく。

何度も撞くうちに、君は気づく。盤の上には、もう一つ、君によく似た球がある。それは少しだけ先を、少しだけ違う軌道で、転がっている。君が撞けば、向こうも撞く。すれ違う瞬間、互いに、見てはいけない。

見れば、思い出してしまうからだ。向こうは、真実を知ってしまった、前回の君。こちらは、まだ忘れている、今回の君。同じ廊下を、ひとつずれて、二人の君が転がっている。

追いつかれそうになると、君は引き返す。三たび引き返せば、影は遠ざかる。そうして君は、また忘れる。忘れて、もう一度、最初の一撞きから始める。

これは、罰ではない。これは、回帰だ。──君が、終わらせないからだ。

VIM U S U B U

集めた断片を、君は結びはじめる。

糸を張り、ピンに掛け、碑紋を辿る。ばらばらだった声と声のあいだに、線を通していく。一本の糸が二つの名を結ぶたび、消えていたはずの旋律が、かすかに立ち上がる。

声は、重なり合っている。どれも古い言語で、何かを歌っている。怖くはなかったのだろうか、と君は思う。最後のとき、彼らは。

結べば結ぶほど、形が見えてくる。それは網であり、織物であり、一人の人間が三千年かけて編み続けた、巨大な喪の布だ。布の縦糸はすべて、同じ手から伸びている。

君の手だ。

集めることは、思い出すことの代わり。結ぶことは、忘れないための、たった一つの作法。──そして、贖罪の、一つの形。

VIIB A N

下層には、蝋燭が並んでいる。

君はそれを、一本ずつ、守りながら降りる。風に揺れ、時に減じ、放っておけば消える。一本が消えるたび、君のなかの何かも、ひとつ暗くなる。

蝋燭は、他の誰かのものではない。この構造体に、他者はいない。炎の一つ一つは、過去の君が、いつかここを通ったときに灯したものだ。

S-01。S-02。……S-17。記録には、十七人の降下者がいる。名は微妙に違うが、姿は同じ。全員、君だった。数字は、君が忘れた回数。

そして今、十八番目の灯を抱いて、君は降りていく。過去の君たちの炎を、消さぬように。彼らが守ろうとしたものを、君もまた、守るために。それが何なのかは、まだ思い出せないまま。

VIIIM A Y O U

最深に近づくほど、道は迷路になる。

奇妙な迷路だ。君が歩いた跡だけが、地に残る。歩かなかった道は、二度と思い出せない。引き返しても、来た道さえ霧に呑まれていく。

つまりこの迷路は、君そのものだ。君が選んだ道が、君になり、選ばなかった道は、なかったことになる。後悔する余地さえ、残らない。

名のある小部屋に入ると、君は立ち止まり、壁の文字を読む。読むほどに、それが誰の生だったかが、わずかに分かってくる。六割を超えて分かったとき、君は鑿を取り、その名を、別の壁に刻みつける。

新しい刻みは、鋭い。だが、下の層へ行くほど、線は浅く、丸くなる。最も古い一画は、もう、名であったことすら、読み取れない。

石の文字が、撫でられて消えるには、人の一生では到底足りない。これらは皆、同じ手が刻んだ。──ならば、その手は、いつから刻んでいる。

塵が、階段の窪みに、第二関節まで積もっていた。

IXN A

層九十九。壁一面の名。天井から床まで、隙間なく。数えきれない、無数の名。

君は今度こそ、それを通り抜ける。今までで、初めての行為だった。壁の最後の名の隣に、これまで見えていなかった扉がある。

その前で、君は、すべてを思い出す。

三千年前。君の子が、目を閉じようとしていた。病は、何年も前から始まっていた。医者は何度も、もう手の施しようがないと告げた。

君は、世界の理を学んだ者だった。建築家。技術者。学者。人の積み上げた知識の最深部で、君は知ってしまった。等価の代償を払えば、因果は書き換えられる、と。

矛盾には、気づいていた。世界を消せば、救われた子の生きる世界も、無い。それでも君は、こう信じようとした。一つの世界を差し出せば、引き換えに、子が健やかな、もう一つの世界が立ち上がる、と。世界ごと、書き換えてしまえばいい、と。子のいない世界に、もう、何の価値も無かったから。

君は、装置を起動した。世界が、子のために、消えていった。

子は、目を開けた。一つだけ、言葉を発した。それは、君の知らない名前だった。君が、たった今、消したばかりの──誰かの名前。

そして子は、息を引き取った。

君は、根本から、誤っていた。等価交換は、世界を取り替える業ではない。ただ、奪い去るだけの業だった。差し出した世界は消え、新しい世界は、来なかった。書き換えるための画布ごと、君は、払ってしまったのだ。子を癒すべき因果は、もう、どこにも無かった。

君は、何もかも失った。子も、世界も、自分すらも。

残ったのは、たった一つ。子が、最後に呼んだ、知らない名前。それだけが、消えた世界から、こぼれ落ちずに残った。

君が三千年、降りつづけているのは、それを忘れないためだ。忘れ、思い出し、また忘れながら。消したすべての命の名を、一人ずつ、壁に刻むために。そして、いちばん奥に、あの一つの名を、置いておくために。

XT O B I R A

扉の向こうには、長い長い、上昇の階段が続いていた。光が、上から、射していた。三千年ぶりの、空の光だった。

君は、登り始める。今度こそ、最後まで。──そう思った、その瞬間に。

灯が、また一つ、細る。背後の壁に、まだ刻まれていない名が、一つ。そして君は、ふと、なぜ自分が登ろうとしているのか、思い出せなくなる。

階段は下へ、下へと続いている。上を振り返っても、そこには、降りてきたばかりの闇しかない。

君は、降りる。なぜ降りるのかは、もう思い出せない。思い出せないということだけを、確かに覚えている。

ここまで読んだ君へ。

この物語に、知らない名前が一つ、置かれていた。君も、それが何なのかは、分からなかったはずだ。分からないまま、最後まで読んだ。

──それでいい。名を知ることが、目的ではなかった。知らないまま、忘れないでいること。それだけが、ずっと、唯一の仕事だった。

今、君がこれを読み終えたなら、その名は、もう一人に託された。次に降りるのは、君だ。

── 静 寂 の 室 ・ 了
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